浄土宗の寺。
1199(正治元)年、性真上人が療養のために結んだ小庵「洲崎の寮」が起源と伝えられている。
その後、1516(永正13)年、宇治平等院から本尊仏及び法誉祐西上人を迎えて放光山瑞相寺と称した。
閻摩十王堂(えんまじゅうおうどう)
1680(延宝8)年建立といわれる。
大正末期頃の台風で閻摩堂が倒壊し、破損のまま釈迦堂に保存されていたが、1978(昭和53)年修理復元され、2005(平成17)年に十王堂が新築された。
釈迦堂
1679(延宝7)年、本尊釈迦仏と釈迦堂を建立。脇立の普賢・文珠両菩薩は、貞末新五郎夫妻の寄進によって建立。
1685(貞享2)年に常念仏供養が始められた。これは「新五郎回向」といわれ、後に柳井津の三大行事の一つに数えられ、明治初年まで多くの人々の参詣があった。
明治維新とともに消えた「新五郎回向」に代わり、貞末新五郎の業績をたたえるため、「柳井繁盛新五郎太鼓」が考案された。
御駕籠石
岩国領吉川公が来柳の際は、小田家(むろやの園)の半閑舎や瑞相寺の滞留が多かったといわれている。瑞相寺の閻摩十王堂の横には、御駕籠(おかご)を置く台石が残っている。かつては御成之間や、武者隠しの間もあった。
琴龍弁財天
往古から瑞相寺の鎮守神としてまつられ、福の神、幸運の神として信仰されている。毎年十七夜に大祭が行われる。
眼缺地蔵尊(めかけじぞうそん)
通称「めくされ地蔵さま」と呼ばれている。
眼の病で苦しんでいる人、心眼のひらけぬままに福運を失っている人達の身代わりとなり、石像であるのに右の御眼がくさってかけたという。
諸願成就の地蔵菩薩として参詣者が多い。
法界地蔵尊
花崗岩の大きな坐像。
長谷川浄鑑が1642(寛永19)年に建立し、後の1726(享保11)年に子孫の長谷川小十郎が再建した。
長谷川浄鑑は、代田八幡宮の一の鳥居(市有形文化財)を子の源治郎とともに寄進している。
漸々軒東明句碑
「雑炊も叡慮にかなふ薺(なずな)かな」
詠み人は柳井正風美濃派第1世宗匠で、本名池田清五郎。
1500(明応9)年、足利義稙が京都から山口へ向かう途中柳井に止宿した故事を偲んで詠んだ句といわれている。
松尾芭蕉句碑
「古池や蛙とびこむ水の音」
花崗岩の石臼を使用。1916(大正5)年、菅原神社改築の際、境内から移された。
白石尭海歌碑
「たかみくら春の明りに明りますお庭の瑞穂たゆる世あらめや」
大正天皇御大典記念に第29世住職が自分の歌を彫って建立。
梅仙・琴水・蘇堂の歌碑
「雨風の制札もがなはなの山 梅仙」
「我は吾が宿に返りて安居哉 琴水」
「襷した遊女を見たり秋日和 蘇堂」
梅仙、琴水、蘇堂は、それぞれ柳井正風美濃派第8世、第11世、第12世宗匠。
音濤・大耻・来丹の歌碑
「秋の山わけ入りて日は暮にけり 音濤」
「寒梅や寺へ五丁の塚立てり 大耻」
「梅が香や道を辿りて日は暮るる 来丹」
音濤は柳井正風美濃派第13世宗匠、大耻は瑞相寺第29世住職、来丹は平井国三郎。
升龍松歌碑
「栄えゆく松のみどりのみさほにハ草木も色をきそはざりけり」
升龍松は、瑞相寺第28世住職在職中の1887(明治20)年に、知恩院第78世竟誉大僧正が植えたもの。
高田琴窓翁頌徳碑
えびす甘露醤油本舗第9代高田伝兵衛の功績を顕彰するため、1902(明治35)年に建立されたもの。