山根の堅田兵部が土手を築き、「堅田土手」といわれるようになった。土手はこの地から東に延びており、一時期往還となっていた。「土手町」や「東土手」という地名は、この土手にちなむもの。
 この土手の南側は海だったが、1686(貞享3)年に中開作として干拓された。

土手町

大畠方面(一里塚跡)   伊保庄方面(土手町の火伏地蔵)