藩政時代周防大島(屋代島)への渡り口であった港。位置は現在より東寄りにあった。

 公用の渡船が常備され、藩や村の役人が公用のため大島への往来に利用していた。

 九州や四国、関西方面への萩本藩の海の出口でもあった。

遠崎の港は妙円寺の南あたりにあった

八郎右衛門らの漂流記
 遠崎の船頭八郎右衛門以下12名乗組の船が、1692(元禄5)年7月に遠崎を出て米を江戸に運び、帰る途中の同年10月に伊勢沖(大王崎)で台風に遭遇し、50日間漂流して1693(元禄6)年1月に中国大陸の広東に漂着、それから中国の地を転々とし、中国の貿易船に便乗して1694(元禄7)年7月長崎県の五島列島(おしか)に着き、長崎奉行所でお調べがあった後、萩へ送られ、同年9月、12人が無事遠崎に帰った。そのいきさつが「遠崎村八郎右衛門記」としてまとめられている。

 江戸時代に大規模な漂流の末、全員無事に帰ってきたのは、極めて稀な事件といわれている。

遠崎八郎右衛門らの漂流

日積方面(鍵屋)   柳井方面(旧古磯商店から出土した古銭)