1848(嘉永元)年に月性が開塾した。

 明治維新で活躍した多くの人物が輩出した私塾として知られている。

 当時は、現草堂の東約50mの所にあった。その後老朽化したため、月性没後33回忌にあたり、門下生が顕彰を目的として1890(明治23)年、現在の草堂を記念館として建てた。

屋根を葺き替える前の清狂草堂

● 月性の墓
 妙円寺本堂の西側に立つ。正面に「清狂師之墓」と刻まれているが、ほかに文字はなく、いつ頃誰の手によって建立されたか明らかでない。

清狂師之墓

● 月性顕彰碑
 清狂草堂の北側の庭に立つ。月性の没後50回忌を記念して1907(明治40)年に建立された。篆額は毛利元昭、碑文は山県有朋の撰。

月性顕彰碑

● 男児立志の詩碑
 1969(昭和44)年建立。月性が1843(天保14)年に京阪地方に向かうとき、出発に際し詠んだ詩が刻まれている。

男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんばまた還らず
骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地
人間到るところ青山あり

 これは、七言八句の律詩の後半で、前半部分の碑は、その横に月性没後150年の時に設置された。

二十七年雲水の身
また師友を尋ねて三津に向かう
児烏反哺まさに日なかるべし
別るるに忍びんや北堂垂白の親

 白髪が目立つようになった53歳の母に対する、月性(当時27歳)の申し訳ない気持ちが述べてある。

● 野口雨情詩碑
「柳井名物はわんわん寺と清狂草堂と般若寺」

 1935(昭和10)年野口雨情が来柳のときに作詩した「柳井小唄」7連のうちの第5連。

 2009(平成21)年、柳井市郷談会が建立。

野口雨情詩碑

●柳井小唄(第7連以外は赤文字の場所に詩碑が建立)
第1連 大師山から日にいく度も 誰がつくやら鐘が鳴る
第2連 春が来たやら湘江庵の 井戸の柳の芽が伸びる
第3連 おいで柳井の天神祭 七日七夜は人の波
第4連 夏は琴石緑の風が 柳井町中にそよそよと
第5連 柳井名物はわんわん寺と 清狂草堂と般若寺
第6連 柳井川原の小石でさえも はなればなれに流される
第7連 柳井港で手を出しゃ届く たよりやりたや大島へ

日積方面(妙円寺)   柳井方面(月性展示館)