伊保庄、阿月の沿岸では、明治末期まで揚浜法による製塩が行われており、ここも昔は塩田だった。
1940(昭和15)年、旧帝国陸軍は「西部第八部隊」を設営し、柳井湾の周辺海上で上陸作戦の訓練を行った。
沖合には離岸堤が残っており、当時の名残をとどめている。
1945(昭和20)年の原爆投下により被災した広島第一陸軍病院が当地に移転し、国立柳井病院が発足した。
その後、何度かの改称を経て現在に至る。
柳井方面(近長の地蔵) 阿月方面(雄心の碑)