瀬越から奥に入った国守の山中に、平家の落人たちが住んだと伝えられている場所がある。
円形の盛土は、平家にまつわる伝説が残っており、積石塚と推察される。
源平池の浦の合戦で惨敗した平家の武士たちは、阿月の浜から海を渡っていったん平郡に落ちのびたが、源氏の急追と食糧難で住むことができず、再び室津にもどり、流れ歩いて国守山中にたどりつき、ここに居を定めた。 国守一帯はどこからも見えにくく、隠れ住むには好都合であった。風の頼りに壇の浦での平家一門滅亡を知った武士たちは、再興に備えて武具を土中に埋め、目印に苔石を置いてそれぞれに山を去っていった。そして遂に帰ることはなかった。 後、武具が埋められていることを知り、掘り取ろうとして祟りに遭う者が出た。この山中には平家墓として七重の石塔があった。 国守山の北側の山に、落人平景貞が住んだと伝えられる所がある。その一帯は、祟りがあるといって人が寄りつかず、鎌一つ入っていない。その山中に草木に埋もれて、先だけが出た五輪搭三基が残っている。 これらのことは、壇の浦の合戦より前に、すでに激しい源平合戦が室津半島であったことを物語っている。 〜「柳井昔ばなし」より〜 |