19 世紀初頭、柳井浜(南浜)を干拓するにあたり、岩国領と本藩領上関宰判の支配地とが境界をめぐって争った。そして幾度もの話し合いの結果、1807(文化4)年に双方の合意が得られ、川が古開作と伊保庄との境とされた。これらのできごとは「伊保庄柳井和談申合」と呼ばれている。
国道 188 号の田布路木橋から東側の川幅が大幅に広がっている理由は、次の申し合わせをもとに開作されたからである。
1.田布呂木の入江干潟が田に開作されるときは、双方の「催合築(もあいづき)」で、新開地は半分ずつの割り取りとする。 2.伊保庄・柳井の境溝から伊保庄の炭焼山への見通しで、その南側は伊保庄の新開とする。この北側で向地川(土穂石川)の土手角から、海上50間までは柳井町開きである。 3.柳井向地川の土手角から、伊保庄炭焼山鼻の線で田開作が行われるときは「催合築(もあいづき)」とし、できあがった新開作は双方半分ずつ割り取りとする。 4.伊保庄吉田開作から高須出張(でばり)までの田開作は、伊保庄の開築とする。 5.柳井古開作出張から裸島の見通しまでの北側は、柳井開築である。 6.伊保庄はかり岩鼻から裸島の見通しの南側は、伊保庄の開築である。 |