干害を防ぎ、年貢米の増収を図るため、1807(文化4)年に岩国領主吉川氏が余田村内を7組に分けて、1組に1箇所ずつため池を掘削させた。
猿森(院内)、箕越(坂本)、窪田(中郷)、唐ケ迫(小原)、森ノ下(今出)、西山、天王の本(中村)などがそれである。
新庄方面(西山の荒神社) 竪ヶ浜方面(極楽寺跡)