1917年(大正6年)に岩政家墓地に建てられた、岩政次郎右衛門(1656~1736年)の顕彰碑。「奥都城」は神霊の鎮まる所という意味で、次郎右衛門の墓所。
●岩政次郎右衛門が企画した新庄の長溝とは
柳井市柳井ハゼヶ谷、黒杭川(柳井川支流)の一の井出(取水口)を起点とし、新庄を経由して、余田堀に至る灌漑用水路。
新庄第4代庄屋の岩政次郎右衛門(1656~1736年(明暦2~享保21年))は、父与左衛門の悲願を聞いて長溝の築造を企画した。岩国領主の吉川公に願い出て、3か年の歳月を要し、1689年(元禄2年)に延長約7km(当時)の長溝を完成させた。それまで干害に悩まされてきた農民は、岩政次郎右衛門を「水の神」とあがめるようになった。
長溝は、300年以上経った現在でも、多くの区間で使われており、新庄北部と余田堀の水田を潤している。
毎年8月19日に、岩政次郎右衛門の墓前にて長溝祭が行われている。
また、毎年5月には、溝さらえ等の作業を欠かすことなく続けている。
①岩政次郎右衛門越智清信大人奥都城
1917年(大正6年)7月、顕彰碑として建立された。
②贈位記念碑
1928年(昭和3年)に、長溝を完成させた功績により従五位が贈られた。1933年(昭和8年)に記念碑を建立した。
新庄村庄屋役故岩政次郎右衛門翁貞享三年三月長溝開鑿起工元錄三年五月頃竣工昭和三年十一月十日依其功贈從五位 昭和八年八月建之 |
③「紀念樹」碑
1935年(昭和10年)11月に植樹された時につくられた石碑。
●岩政次郎右衛門(1656~1736年(明暦2~享保21年))
岩政与左衛門の二男。第4代庄屋を務め、父の悲願を聞いて長溝の築造を企画。領主吉川公に願い出て3ヶ年の歳月を要し1689年(元禄2年)、延長約7kmにわたる灌漑用水路を完成した。
墓の背面には、「治郎右門」「長溝」の文字が見える。
●岩政信比古(さねひこ)(1790~1856年(寛政2~安政3年))
岩政信盈(のぶみつ)の三男で、幼名は要吉。本居宣長の高弟である、出雲の千家俊信(せんげとしざね)に師事。新庄で第9代庄屋を務める傍ら国学塾を開き、門弟は200名余りとされる。信比古の思想(復古主義に基づく尊王思想)は、月性、秋良敦之助によって尊王攘夷思想に発展し、討幕の基となる。
信比古墓の正面には「常輪院轉譽覺翁居士」、右側面には「安政三年丙辰十二月十八日卒」とある。
新庄公民館近くに、1956年(昭和31年)に建立した「信比古碑」がある。
●岩政隣徳(りんとく)(1836~1884年(天保7~明治17年))
岩政信比古の長男で、幼名は篤太郎。1851年(嘉永4年)から17年間、新庄村の第10代庄屋を務める。1874年(明治7年)年に自宅を仮教場にして新庄小学校を開設。その後、伊弉諾神社などの神官を歴任した。歌人として著名で、明治時代に編さんされた「明治百人一首」の一句に、隣徳の和歌「ねの日してよはひを野辺にひく松はおのか千歳の友と植えまし」が選ばれた。
隣徳墓の正面には「正七位越智宿彌岩政隣德之墓」、右側面には「明治十七年七月二十八日死」とある。
柳井方面(火伏地蔵) 余田方面(ラクウショウ一本並びに気根群)