「いんのおばら」と読む。以下の伝説がある。

 名もない犬が主人に尽くして殺され、それが「犬の尾原(いんのおばら)」という地名となって残っているところが伊陸にある。
 戦国時代のこと、伊陸の町野相模守(さがみのかみ)は陶晴賢(すえはるかた)の家臣となって、厳島の合戦で戦死した。弘治元(1555)年十月、小早川軍は岩国から柳井へ兵を進め、その途中、町野氏の残党を討つために一隊を仕立て、紅葉に染まった伊陸路へ攻め入らせた。浦兵部丞(うらひょうぶのじょう)、飯田七郎右衛門、香川左衛門尉(さえもんのじょう)が率いる700騎であった。一隊は由宇から山道伝いに攻め、町野氏の部下はこれを氷室(ひむろ)岳(だけ)に城を構えて迎え討った。激しい合戦がつづき、町野氏の味方数十名が討ち死にし、小早川軍でも、香川氏の家人三宅市之丞ら20~30名が戦死した。
 勝ちに乗じた小早川軍は伊陸の北畑と奥畑あたりまで攻め入ってきた。いち早く敵軍の襲来に気づいた町野氏の飼い犬がけたたましくほえて、危機を味方に知らせた。
「こしゃくな犬め!」
 怒った敵方の一人は、一刀のもとにほえたてる犬を切り捨てた。
 戦いが終わり、あたりに静けさがもどったので、村人が固く閉ざしていた戸をあけて外へ出てみると、犬の尾が残っていた。
「命を捨ててまで主家を救った、恩を忘れない犬」
として、犬の尾をうめ、小石を積んでとむらった。後、だれいうとなくその地が「犬の尾原」と呼ばれるようになった。
 優勢な小早川軍に追われた残党は、久可地でも戦ったが、ついに降参した。その時結ばれた「助命いたすべきこと」の約束は小早川軍によって一方的に破られ、17名の者が高山寺の松の木にはりつけになり、無念な一命を終わった。
 今も犬の尾や上原地区には、武士たちを葬って小石を積みあげた塚がいくつか残っている。
~柳井市立図書館編『柳井昔ばなし』(1990)より~
犬の尾原

祖生方面(道場遺跡)   大畠方面(中村の地蔵