鍛冶屋原の地は、『享保増補村記附図』によると「市ノ原」とある。北方と同様、代官支配の下、市が立っていたものと考えられる。

 元亀・天正年間(1570年代)に「鍛冶神右衛門」という鍛冶屋がおり、矢を造っていたという伝承がある。また、大帯姫八幡宮の棟札にも「鍛冶神右衛門」の名があり、八幡宮の改築にも深く関わり、しかも杉氏との関係が密接であったと考えられる。

 付近の住宅地などから鉄滓(スラグ)が大量に出る。屋号にも、ヤハギ(矢作り)ヤカタ(矢運び)等が現存する。

 戦国の世に、大内氏の代官の支配下で武器を製造し、併せて農具も造ったといわれている。

 東北大学によるスラグの分析の結果、鉄の材料は砂鉄で、形状と大きさから、鍛造工程の遺物と鑑定されている。これらから、砂鉄によるたたら製鉄の一次製品を取り寄せ、鍛練して上質の玉鋼を製造する大鍛冶屋の産業廃棄物であることがわかった。

鍛冶屋原遺跡
鍛冶屋原遺跡のスラグ

岩国方面(鍛冶屋原一里塚跡)   大畠方面(宮ヶ原の宮石)