1718(享保3)年に百姓一揆が起こり、これに関わった百姓たちへの処分では多くの犠牲者が出た。
伊陸村も一揆に加わったことから、首謀者とみられる14人が萩の本藩に呼び出され、長野の宮吉のみが萩において斬首の刑に処せられた。
村人はひそかに長野に宮吉の墓を立てたが、とがめを受けないよう長い間こもで覆い隠していたという。
墓には「南無阿弥陀仏享保六年 丑 三月朔日 宮吉」と刻まれている。
由宇方面(黄幡社) 柳井方面(石井の一里塚)