浄土宗の寺。
初めは瑞相寺末で阿弥陀堂と称していたが、1809(文化6)年、瑞相寺21世の代に平僧住職の寺となる。
開作新右衛門
阿弥陀寺の無縁墓地の片隅にある古い墓。「利剣即到信士」の法名が刻まれている。
開作新右衛門は、享保の百姓一揆で仲間5人衆とはかって「百姓手斗りとして4斗5升納め」御免許を願い出た。続く1719(享保4)年、古開作、新庄、余田地方の百姓一同が、竹槍を持って錦帯橋下の河原へ押し寄せ、この願いが聞き入れらねば橋および館を焼き払うと騒ぎ立てた。この様子に驚いた役人は、直ちに岩国領主吉川公に事の次第を伝え、願いはついに許されることとなった。しかし5人衆は萩に移され、義民新右衛門は、首謀者として1721(享保6)年、32歳で斬首の極刑に処せられた。
寺本堂には位牌が2基あり、「利劔即到信士霊位」、裏面に「享保六辛丑歳三月朔日 月牌銀三拾目」と記されている。