柳井地域は、全国でも屈指の日照時間を誇り、温暖多日照で穏やかな気候風土に恵まれています。青空と陽光あふれる瀬戸内海と緑美しい農山村、海の歴史に彩られた伝説や人の営みを包摂する、新しい観光戦略の基本概念として、2011年に「にっぽん晴れ街道」が提案されました。

柳井地域を通る街道

 柳井市内を通る江戸時代の主要な街道として、岩国市の小瀬と上関を結ぶ「小瀬上関往還」(全長約60km)と、岩国市の錦帯橋のあたりから平生町竪ヶ浜を結ぶ「岩国竪ヶ浜往還」(全長約36km)があります。この2つの街道のうち、柳井市内を通る街道(延長約44km)そのものを総称して「柳井にっぽん晴れ街道」と名付けました。2014年3月のことです。

 2014年3月26日、「柳井にっぽん晴れ街道」は「夢街道ルネサンス」新規認定地区に認定され、同年6月、広島市で開催された「平成26年度ちゅうごく街道交流会議」において、認定証と銘板をいただきました。

 「夢街道ルネサンス」とは、「みち」と「地域」の一体的な発展をめざすため、歴史・文化・自然などの魅力を再発見し、それらの地域資源を活かした地域づくりの取組を支援するものです。2001年度から、国土交通省中国地方整備局管内における、中国地方独自の制度「夢街道認定制度」が創設され、50地区が認定されています(2021年3月現在)。

https://www.cgr.mlit.go.jp/cgkansen/yumekaidou/

古文書にみる街道

 江戸期の古文書を見ると、当時の街道の様子や、旅の状況が手に取るように分かります。

 ここでは、主な旅の記録を見ていくことにします。

■吉川公と街道
 岩国領主吉川公は、来柳の際、小田家(むろやの園)の半閑舎や瑞相寺の滞留が多かったといわれている。瑞相寺の閻魔十王堂の横には、御駕籠(おかご)を置く台石が残っている。かつては御成之間や、武者隠しの間もあった。

●吉川広紀(第4代)~岩国徴古館蔵『上之関御越日記』より~
 1691(元禄4)年3月5日~15日に岩国~上関間を行き来している。

 3月5日、玖珂、伊陸を経由して瑞相寺に一泊しており、岩国竪ヶ浜往還を通ったと推定される。柳井と上関を往復後、13日に瑞相寺を出発している。宮本八幡、海善寺、石神の明神、神代瀧の観音、神代の八幡等などの名が記されており、小瀬上関往還、瀬戸山道を通ったと推定される。

●吉川経倫(第7代)~瑞相寺文書『御止宿之記』より~
 1786(天明6)年、萩から岩国への帰路、瑞相寺に二泊している。閏10月29日午後1時頃、瑞相寺を出発し、江の浦から船で岩国へ帰る途中、大畠瀬戸で北東の風が強く吹き出したため、大畠に午後6時頃上陸し、日積を通って通津に午後11時頃到着した。翌30日船で今津へ向かい、朔日に岩国に到着している。瑞相寺から江の浦までと、大畠から通津までは、小瀬上関往還を通ったと推定される。

●吉川経幹(第12代)~岩国徴古館蔵『殿様御遠馬柳井御出室積普賢御参詣之記』より~
 1857(安政4)年3月22日から4日間、乗馬による御領内の巡見にあたり、準備段階から岩国出発、柳井泊、岩国帰着までの様子が詳細に記されている。

 22日午前4時頃岩国を出発。玖珂で弁当を食べ、伊陸、馬皿峠を経由して午後4時頃瑞相寺に到着している。

 23日は午前6時頃瑞相寺を出発。余田、田布施を経由して、室積の普賢堂に参詣し、夜10時頃瑞相寺に戻っている。

 24日は誓光寺、光台寺、大師山で桜見物をしている。

 25日は午前6時頃瑞相寺を出発し、代田八幡宮や白潟、大畠、神代浜などで休息し、午後6時頃岩国に到着している。

 この間、225人(23日は143人)の供を従え、乗馬で岩国竪ヶ浜往還や小瀬上関往還、瀬戸山道を通ったと推定される。

■司馬江漢と街道~『西遊日記』より~
 1788(天明8)年、洋風画家の司馬江漢が、平賀源内の影響を受けて、長崎のオランダ人に油絵修行に出かけた。

 江戸からの道中見聞記9月27~28日の中に、柳井が登場する。それによると、山陽道(西国街道)を通らず、岩国から由宇、大畠、遠崎、柳井津、田布施、国木、室積と回り道をしている。由宇から大畠までの間の瀬戸山道については、人家や休み処がなく、砂路で歩きにくかった様子が綴られている。27日に泊まった柳井津については、「柳井津と云え所に至るに、茲は能所にて瓦屋あり」とある。翌28日、「町はつれ橋ある所」とあり、宝来橋を渡っている。「夫より一里半来りて、多武瀬(田布施)村あり、染物屋多し。之より岩国領に非ず」と記されており、岩国竪ヶ浜往還を通ったと推定される。

■諸国巡拝と街道~『日本九峰修行日記』より(『日本庶民生活史料集成』所収)~
 日向国(宮崎県)佐土原の修験者野田泉光院は、1812(文化9)年から6年余り、諸国の名山霊跡を巡拝している。1813(文化10)年11月から翌年3月にかけて、赤間関(下関)-舟木(宇部)-萩-山口-秋穂-下松-室津-柳井-岩国と旅している。

 1814(文化11)年2月21日、平生から室津へ向かっているが、「甚だ道悪し」と評している。

 23日の昼に室津を出て、オグニ村(現:平生町)に泊まっている。

 24日、峠を越えて魚の庄(伊保庄)に出ている。「柳井町の前に渡船あり」と記されている。

 25日は柳井に滞在し休息。衣類洗濯をした。

 26日は瑞相寺の念仏供養に参るなどしている。

 27日は雨天のため滞在。

 28日は昼に柳井を出て田代八幡(代田八幡宮か)、正堂八幡(松戸八幡宮か)に詣で、大畠に泊まった。

 29日は神代を出て、由宇に到着。

 3月5日に由宇を出て平田(現:岩国市)で泊まり、6日に岩国に到着した。

 この巡拝において、小瀬上関往還と瀬戸山道を通ったと推定される。

■種痘医と街道~『柳井種痘日記』より~
 1859(安政6)年に岩国の種痘医が柳井地区の担当となり、同年2月10日に岩国から柳井へ赴いた時に、岩国竪ヶ浜往還を利用したと推定される。朝岩国を出発し、正午ごろ玖珂で食事をし、暮れに柳井に到着した旨が記してある。当時の交通手段は徒歩と推定されるため、全長7里(約28km)を1日かけて移動していたことになる。